鈍いという美徳

鈍い。

蛇口を使っていないのに、洗面台を空けない。

二人半の幅しかない道路で、二列横隊を崩さない。

戸を、洗濯機を、炊飯器を、バスケットボールでも撞くかのように音を立てて閉める。

トイレに入って手を洗わない。舐った指でリモコンに触る。

散らかさないことも、片付けることもしない。

鈍い。無神経。気遣いが足りない。様々に云い表すことが出来るこれらの性質は恐らく、一種の生存戦略なのだ。

鈍いということは変化を受けにくい、剛性が高いということである。部品としての耐久性が望めるということである。

河川の堤防や海岸の消波ブロックは、そこにあるだけで”そこにある”という役割を果たしている。常にそこに立っている人がいるから、動かすことの出来るものが、休ませることの出来るものがある。

社会の歯車とはよく云ったものである。”鈍い”部品を幾つも組み合わせて大きな流れを作り出しているのだ。一つ一つの歯車はただ”鈍い”だけの小さな部品であるからこそ、壊れ難く、組み合わせ易く、そして替えが効く。

歯車は歯車として生まれてくるのだろうか。それとも、生まれた時は粘土だったものが、削られ、焼き固められ、また削られて歯車の形を成すのだろうか。

歯車として生まれた憶えはない。火や鑿鎚からも逃れて生きてきた。自分には”形”というものがあるのだろうか。自分の形を知り、はめ込む隙間を探すということが出来るのだろうか。「上善如水」という言葉がある。上質な善というものは争わず逆らわず、水のようにただ流れていくものなのだ。そんなふうな意味だったと記憶している。己は水として生まれ、水として生きるのだろうか。金と煙を嫌い、草木の根の下を這う生き方をしていたとしても、自分は水であると云えるのだろうか。

「(40+60)÷2」派の頭の中

ネットでみつけた問題

「少女は、車を運転して家から隣町までの距離を往復した。
 行きは時速40km。
 帰りは時速60km。
 では、少女の平均時速は?」

というもの。

(40+60)÷2で時速50kmが答えだと思ったのだが、これは不正解である、と。

速さとは距離を時間で割って求めるものである。

計算しやすくするため、仮に片道の距離を40と60の最小公倍数である120と置き、往路と復路のそれぞれにかかった時間を求めると、

(往路にかかった時間)=120÷40=3時間
(復路にかかった時間)=120÷60=2時間

120kmの道のりを行きは3時間、帰りは2時間かけて走ったので、合計240kmの道のりを5時間かけて走ったことになる。よって、

(120+120)÷(3+2)=48

となり、平均時速は48kmが正解である……と。


納得いかね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!


この問題、中学校入試なんかでよく出題されるものらしい。つまり小学校までに習う知識で解くことが出来るとされているのだ。
そんな問題を今さらネットでみつけてヤイヤイ言っている時点で、お前は初等教育をちゃんと修了したんか、という疑問が発生するが、それは一旦置いておく。

説明を聞いても納得できなかった。なんで(40+60)÷2じゃダメなん??というのが正直な感想だった。

数学の先生が「ネ簡単でしょ、わかったでしょ」と言っているのにこっちの頭が「???」な時、計算の前提となる単語や問題文の捉え方に齟齬が生じていることがある。今回もそれなのかと思って、今一度問題文を嚙み砕いて考え直してみた。

 

「少女は、車を運転して家から隣町までの距離を往復した。」
この"少女"というのが運転免許を取得することの出来る18歳以上の女性に対して適用される言葉であるかどうかの議論は、恐らく今回の計算には関わらないだろうから省くとする。
"家から隣町までの距離を往復"とあるのは多分、「二地点間の距離は不明(或いは任意)とするが、行き来する道のり(距離)は同じであるとする」「往復で長さの異なる道を使った可能性は考えないものとする」ということが言いたいのだろう。

「行きは時速40km。帰りは時速60km。」
信号待ちなんかも含めた平均時速が、行きは40kmで帰りは60kmだったということだ。

「では、少女の平均時速は?」
あれ、"平均時速"ってなんだ?自分も一個前の項に使っている言葉だが、そもそも時速(速さ)とは距離を時間で割った平均の値であるはずだ。
ここで云う"平均"というのは「赤赤」とか「瑞々しい」のような強調の意味合いを持たせた畳語表現なのだろうか。それとも、平均した値をさらに平均した値(?)という意味なのだろうか。

 

未整理な部分こそあるが、一先ず書き出してみた①、②、③の条件から「240÷5」という式に繋げる方法を考えてみて、そして気が付いた。

作問者は「"往路"と"復路"という二つの道のり」ではなく、「"往復路"という一つの道のり」であると捉えているのではないか、と。

この問題を考えている時、自分の頭の中には

(往路・発)家------------隣町(往路・着) →120kmを時速40kmで走った
(復路・発)隣町------------家(復路・着) →120kmを時速60kmで走った

という図式があったが、作問者のイメージした図式は

(往復路・発)家------------隣町------------家(往復路・着)

                   ↳240kmを時速48kmで走った

と、こういうものだったのではないだろうか。

 

「問題文中の登場人物が"少女"一人だけなのだから、行きも帰りも運転したのは少女である」という部分までは恐らく共通の認識なのだろう。
だがそこから先が決定的に違っていて、作問者は「運転手が同一の人物である」ということを「時間的連続性がある」と解釈しているのではないだろうか。

「(40+60)÷2」派の自分は"往復"という言葉を聞いて買い物や里帰りをイメージし、数分か数時間か、或いは一日二日くらいの時間的隔絶があるのだろうと、即ち"時間的に別人"であるのだろうと考えていたが、「240÷5」派筆頭たる作問者のイメージする"往復"というのはどうやら、水泳やマラソンの折り返しのような、時間的に連続したものであり、往路の少女も復路の少女も"時間的に同一人物"であるようだ。

仮に、登場人物が少女Aと少女Bの二人だったとする。Aが往路を時速40kmで、Bが復路を時速60kmでそれぞれ運転した時の平均速度を求めよ、という問題があったとして、人格によって区別することの出来る二つの道のりを、"往復"と一纏めにしてしまうことには違和感がないだろうか。人格的にしろ、時間的にしろ、別の人物によって走破されたと考えることが出来るのならば、それぞれの道のりもまた、別個のものであると考える余地があって然るべきである。

つまり「(40+60)÷2」派の頭の中には、時間的に別人である"少女(往)"と"少女(復)"が存在し、同じだけの距離をそれぞれの少女が走った、という物語が浮かんでいるのだ。たぶん。

 

以上のことを踏まえると、やはり「(40+60)÷2」が不正解であるとは言い切れないのではないか、と思えてくる。少なくとも上述の問題文には時間的連続性に関する記述が無いため「"往路"と"復路"という二つの道のり」なのか、「"往復路"という一つの道のり」なのかという判断が出来ず、「(40+60)÷2」と「240÷5」の二つの可能性が発生してしまう……と云うことが出来ないだろうか。

速度を10の倍数にするため車というテーマを使っておきながら、引っかけてやろうというスケベ心なのか、態々"往復"なんて書き方をした結果、解釈違いの余地を与えてしまっている。問題文としての正確性、公平性を重視するならば、先に挙げたような水泳やマラソンをテーマに作問し、時間的連続性を明らかにすべきであった、と結論付け、本稿の締めくくりとする。


「別に違和感とかねーよ、屁理屈言うな」と言われてしまえば返す言葉はないし、「これはこう解くんだよ覚えてネ」というのが受験数学の定石なのかもしれないが、それでもやっぱり頭ごなしに不正解扱いされるのは納得いかね~!ということが言いたかった。

数学で点数がとれなくて私立文系の受験を決めた生徒が、授業中寝てたクセにテスト返しの段になって作問に不服を言っているようなものなので、アドバイスや誤解の指摘等あれば遠慮なく、出来るだけわかりやすく、伝えてやっていただけるとありがたいです。

パート把握用メモ ◆学校であった怖い話 実況プレイ◆ 稲葉百万鉄

【part1】あんたのほうが輝いてるぜ!

●0:00 オープニング

 0:03 バンプレストかぁ……

 0:09 テイク2お願いします

 1:52 逆から読んでも新聞部

 2:06 十二個の目

 3:44 なんて陰気そうな人だろう>>荒井昭二

 6:24 「学校であった怖い話S」も購入済み

 7:07 新聞部一年生、稲葉百万鉄

 8:38 新堂さんはポケモンで云うピカチュウ枠というか

 9:47 この人の話は怖そうだ>>荒井昭二

 9:58 眼光が鋭いですね。ただならぬものを感じます>>風間望、細田友晴、岩下明美

 10:28 みなさんを待ってるのは、この人たちですよ

●11:50 新堂一話「霊界へ続く旧校舎の鏡」

 11:54 曲かっこいいね

 12:33 昼間から旧校舎に入り浸る男

 15:18 吉岡登場

 19:46 今日はすごく霊気が強い日だね

 20:46 最初で最後の、あいつの笑顔さ

 21:40 イナババタイムズ作んないといけないからさ

 23:13 サッキュバスかい?

 25:21 ファイティング吉岡

 26:19 ちょっとエッチな感じだとありがたいんですけど

 29:49 死んでいたんだよ

 31:43 楽になりたい

 32:12 新聞に載せられない

 

【part2】あんたのほうがいいぜ!

引き出しと布団

「就職して最初に思ったのが、『俺が一番下じゃん』だった」

 

「というと」

 

「高校、大学とバイトも部活もやってなかったから、人間関係における上下の感覚が薄れていたんだな」
「一年生、二年生……じゃなく"大学生"を五年続けた気分だった」

 

「一回留年したんですね」

 

「家族や親戚としか関わらなかったから、俺は俺でしかなかった」
「誰の上にも下にもいなかったんだ」
「それが会社に入ったら一番下っ端の最年少だ」

 

「ストレートの同期は一個下じゃないですか?」

 

「二十年も生きた体が、脳が、組織に属するだけで末端として扱われるということに強烈な違和感を覚えたんだ」

「成人して、自由な時間が出来て、ようやっと"人"になれたと思ったら、また引き出しの中へ入れられてしまった」
「それが嫌で、俺は布団の上へ転がり落ちたんだよ」

「デスクの引き出しの中からね」
「おかげで今日も、俺は俺でいることが出来ている」

 

「つまるところ貴方は……」

 

ニートさ、大卒のね」

名前はタンス

名前はタンス、意味が入った黄色いタンス
グリーンのセーター、母さんの手袋、ストライプのネクタイ、へそくりの封筒、そんな意味たちが入ってる
机の横の、黄色いタンス

タンスに入れて、探しやすい

お絵かき考察

自分の絵柄というものを持っている人が羨ましく思える時がある。キャラクターへの想いや妄想を素早く、わかりやすく形にすることが出来る。迷いが少ないというのは一つの能力である。

自分の絵柄、ほしいな。今あるだろうか。お絵かきは模写ばかりで、オリジナルといえば小学生の頃自由帳に描いた、下半身を露出した劇画調のドラえもんとか、そんなのが思い浮かぶ。あれらに自分の絵柄があったのだろうか。

模写したものの中から気に入った筆のおき方や表情を取り入れて自分の絵というものが出来上がっていくのかもしれない。よく模写した対象。一番はポケモンだろうか。下敷きに並ぶホウエン地方ポケモンを片端から自由帳に並べていた。ドラクエ。ⅸの図鑑をみながら描いた魔王たち。年が上がってくると、BLEACH鋼の錬金術師虚化した一護やキングブラッドレイ。線の少ないカートゥーン調、彫りの深い劇画調。写すだけだからその時描きたいものをジャンルに拘らず描いていた。あとは何だろう。最近だとラブライブとか。顔の輪郭や目の描き方はラブライブのものがイメージしやすいかもしれない。

ここで一度頭の中から脱出を図り、自分の好みを収集、整理してみようと思う。そのためのツールとして、pixivを選択した。フォローしているユーザーの、一体どこに惹かれたのかを考え、書き出していけば、絵柄のパラメータのようなものが浮かび上がってくるのではないか。恣意的な能力向上を図れるのではないか。本稿で行うのはそんな試みである。

 

【中音ナタ】

女児。『1日1本ラブライブ4コマ』と題してTwitterに毎日ラブライブの4コマを投稿していた。一枚絵よりも四コマ漫画を多く投稿している印象がある。淡い色遣い、少ない線で頭身は小さめ。筆ペンのような先細りの線。ギャグ、ダジャレ、ネットミームを多用。目を大きく口を小さく描くためか、キャラクターにあどけなさを感じる。よく描くのは女児、女子高生。にじさんじの男性ライバーも中性的な印象がある。

 

【あs】

汁。薄い色遣い、少ない線。タッチをあまり変えず、衣服の描きこみや陰影のつけ方でコミカルとシリアスを描き分けている。漫画多め。細い線とグラデーションをかけた淡い色遣い。白無地の背景が多い。肌も白味が強いが、背景を黒くする、輪郭の色線を使う、服や髪で肌の輪郭を覆うなどしているためか、みえづらいという印象は受けない。

 

【しぴー】

ロリ。線の太さ、並み。肌や衣服よりも頭部、目や髪に光と影の描きこみが多い。衣服も細かく描きこまれているが、対象の色よりも、そこに映る光や影の色が多い場所に目が行くのだろうか。5~6頭身。イラスト多め。

 

【フウザサ】

白黒。線画とトーンでモノクロ漫画を描いている。カラーありきのイラストというよりは白黒で一度完成している作品に、改めて色をのせている感があり、イラストというよりも漫画という印象が強い。骨格や目立つ部位を描きこむが、筋肉や皺の描写は少ないため、写実よりは漫画に寄るか。

 

曖昧模糊としていた場所に少しずつ手がかりがみえてきたような。

・作品の工程における塗りの割合によって線画の描きこみ、即ちキートーンの量を変える。

・顔のパーツの配置や頭身はみための年齢や性差につながり、骨格や筋肉の描きこみは写実寄りか漫画寄りかという印象差を生む。

文字に起こすとすればこんなところだろうか。疲れたのでここまで。

独りぼっちは、寂しいもんな

 断定的な物言いがあまり好きではありません。

 するのも、されるのも。

 

 「確からしい」「蓋然性が高い」と云える事柄はありますが、どんな時でも「万に一つ」を考えてしまいます。

 ”例外のない統計はない”なんて言い回しがありますが、非常識だ身勝手だと言われてきたせいか、自分が例外の側にいるとしたら、という懸念を強く持つ癖があるように思います。

 

 物語における主人公は多くイレギュラーな存在であり、周囲とは異なる考えや行動によって事態を解決へと導きます。その姿に、希望を見出してしまったとでも云うのでしょうか。

 

 物語の主人公になれないなら、せめて主人公の味方くらいはしてやりたい、なんて考えているのかもしれません。