劇場版『ルックバック』感想雑記 ~ひらり落ちる四コマと死の受容過程~
※全編にネタバレを含みます。既に映画をみた人、事前にあらすじを知った上でも映画を楽しむことが出来るぜ!という人などが読むことを想定して書きました。
上空から街を俯瞰する画。一コマ目からアニオリ。藤野家の窓へと視点が下りていく。スクリーンの中へと観客の視線と意識を没入させる演出か。
映画では四コマがアニメ―ションとして描かれていた。『ファーストキス』は何度みても面白い。私がクラスメイトだったとしても「天才」と云うと思う。京本が口にしたそれほど、藤野を喜ばせはしないのだろうが。
天狗になった藤野の「学校にもこれない軟弱者に〜」のシーン、喋りながら画面が三度引いて(寄って?)いき、その度に可笑しさがこみ上げる。
京本が初めて描いた『放課後の学校』では夕日に色づく無人の校舎に『ふるさと』?が流れ、漫画よりもノスタルジックさが強調されていた。
京本の漫画をみた藤野が、髪を逆立て歯噛みするジブリっぽい演出。衝撃を受ける藤野からカメラが引き異様に広く生徒の多い(八十人くらいいた?)教室を映すのは藤野が己の小ささを知ったという演出か。
「卒業しなよ」と同級生が言うシーン。一心に筆を走らせていた藤野の手が止まる様子が漫画よりも印象深い。画面外の同級生が「邪魔しちゃダメだよ、藤本さん漫画書いてるんだから」と。応援もしないが、倦厭するわけでもない周囲の反応がリアルなものに感じられる。藤本タツキにも似たような経験があるのだろうか。
藤野が絵の勉強を始めるシーン、窓の外にも色がついたことで机に向かい続ける藤野と移りゆく季節の対比がより鮮やか。
京本の二作目『夏まつり』。漫画では写実的な線画だったが、映画では黒と白を逆転させた(黒地に白の線で描かれた)、静謐さを強く感じさせる夜景になっていた。
「藤野ちゃんと遊ぶの久しぶり〜」のシーンも他意を含まない純粋な喜びに聴こえた。
「捨てといてぇ」のシーンで壁に貼られていた"タイマグラじいちゃん"と書かれたポスター。タイマグラとは岩手県の山奥にある地名で、この場所を舞台とした『タイマグラばあちゃん』というドキュメンタリー映画があるらしい。
京本の部屋の前の空間は、立体的にみることでより細く狭く感じられ、その狭い廊下の突き当たる小さな壁いっぱいに戸があるようにみえた。
大歓声の『引きこもり世界大会』。四コマの紙片がはらと回りながら戸の下へ滑り込んでいくシーン、スローモーションにするなどの引き延ばしを挟むことなく、あっけなく落ちていく様子が、漫画を読んだ時に感じた通りだと思った。
「失礼しました!」のシーン、あがりで止まり切れず足を滑らせる藤野。ここもジブリ味を感じる。
追いかけた京本が出てくるシーン、すぐに話し出さず、京本が数秒に渡って息を切らせる画が追加。
京本はかなり(「わだす」レベルで)訛っている。
「賞に出す話〜」のシーン、漫画では気が付かなかったが冒頭の「ていうか」を二回言っている。藤野が浮き足立っていることがよくわかる。
「雨降ってきたから帰ろっと」は棒読みとも違う、感情を押して均したような抑えた声。
雨の帰り道、水溜まりを手で掬い飛ばし、両足で水溜まりに飛び乗る。『雨に唄えば』のダンスシーンを思い出した。
藤野家に布団を持ち込んでいるシーンは原作にもあったが気が付かなかった。
集英社に持ち込みをするシーン、漫画では二人一コマだった顔を一人ずつ映すことで乗り出して話す藤野と汗まみれで下を向く京本とが対比される。
コンビニのシーン、光の温かさがより鮮やかになるのもカラーの利点。
藤野が京本と肩を組むシーンは動きがついたことでよりスキンシップ感が強く。尊い。
町遊び。藤野のシャツは空色、京本のセーターは桃色。自分のクレープを京本に差し出す藤野。映画では「お礼は10万でいいよ」「え!?」というやり取りの後に藤野の「ウソ」という一言が追加されたことでシュールさよりも和気藹々とした印象が強まった。
中学に上がって直ぐは敬語だったのが町遊びの頃には常語と「藤野ちゃん」呼びになっていた。
あまり気にしていなかったが、描かれているものは全て、描かれているのだ。漫画の世界では、腕の置き方から路傍の石ころ一つに至るまでが意図を持って描かれ、意味を持って存在している。
目でみた風景を漫画にしていくシーン、セミを前に顔をみあわせる二人、水槽の前でサメに驚く京本。
手を繋ぎ走る二人のカット、繋いだ手が少しずつ解(ほど)けていくが、進む速度の違いというよりも、自立を意識した京本が自分の足で走りながらも少しずつ手を緩めていっているようにみえる。
高校生になった二人、声は低く落ち着き、京本の訛りも薄れている。
「美術の大学に〜」のシーン、藤野・京本の間を裂くように枯れ木が描かれている。冒頭のジブリや廊下で滑るシーンと同じく、"日本のアニメ映画らしい"シーンを意識して組み込んでいるように感じた。
連載を開始した藤野は隣にアシスタントを置いている。一巻ずつ重なっていく『シャークキック』の表紙はかなり『チェンソーマン』に寄せている。
腹を下したのかトイレに籠る藤野。
前の人は辞めたのか、「もっと考えて描いてほしい」など求める能力を話し集英社?にアシスタントを要請する藤野。貧乏ゆすりをしている。敬語が板につき通話終了の挨拶も言い慣れているようだ。藤野がオトナになっていることが少し意外で印象的だった。藤野役の河合優実も最初、小学生藤野がそのまま大きくなったイメージで演じていたが、ディレクションによって柔らかくなっていったらしい。
通話が終了し、ニュースの音が聴こえ始め。
京本は出ない。けたたましく不協和音を吐くスマホ、母からの着信。無機質な画面は不吉を煽るように。
無音。
回想、「私ももっと絵ウマくなるね!藤野ちゃんみたいに!」京本が美大に行ったのは漫画のため、藤野に並ぶためでもあったのか。
京本の遺影は漫画よりも沈んだ表情にみえた。
京本家、藤野が戸に手をかけようとして、止めるアニオリシーン。
バラバラとめくるジャンプの中に一瞬みえた「台風」という吹き出しは『チェンソーマン』レゼ編のオマージュか。
するりと滑り込む紙片。一拍置いて気がついた京本の反応は「わっ…」という驚きというよりも「わぁ……」という小さな当惑に聴こえた。
漫画では気が付かなかったが、事件の日に京本が描いていた絵は『チェンソーマン』主人公のデンジの心象に時々現れていた扉に似ている。帰ってから読み比べるとほぼ同じものだった。扉を開くことに対する葛藤という点において、デンジの心象風景と京本の部屋の扉は重なる部分があるかもしれない。
漫画「ねえキミさ お前っ オマエさあ」 → 映画「ねえキミ じゃなくお前さっ」。
空手を選んだ世界線のグリーンジャージ藤野。話し方もかなり砕けている。直前に社会人の窮屈が描かれていたからか、私自身に社会人に対する然うした先入観があるからなのか、社会人藤野よりも親しみやすく生き生きしているように感じられた。
「あーいいよいいよ」は「お礼なんていいよ」というふうにも読めるな、と思っていたが、声がつくと「うんいいよ」という肯定のニュアンスを含んだ言い方だった。
映画で気づいた、「やっぱりそうだ」のシーンで美少女の手(胸の前で指を合わせるやつ)をやる京本。
「最近また描き始めたよ」が少し棒読み調だったのはストレッチャーに乗って首だけ起こした姿勢だったからか。年月の経過に伴う声色や話し方の変化に加え、場面ごとの登場人物の姿勢にまで気を配っているのだとしたらすごいことだ。
雪解け水を踏んで去っていく救急車。雪解け水という舞台装置は、そこにあった雪は齎された陽光によって溶かされたという、文字通り事態の氷解を告げる描写か。
畦を走る京本は巾着を振り回しながら漫画よりもずっとはしゃいでいた。
紙片ひらり。座り込む藤野の足元にいつの間にかあった紙片。京本の「わぁ……」の時も思ったが、紙片は静かに舞い込み、いつの間にかそこにあるという描写が一貫している気がする。一度戸を開けかけて止めるシーンがあったことで、四コマが京本の部屋に入るきっかけになったという印象が強まった。
初めて読んだ時、廊下で三角座りしている藤野の足元に紙片が現れるシーンが一番印象的だった。作中に見開きは四つあるが、この画が特に記憶に残ったのは何故だろう。事態が明転する予感を感じたからか。私が、パンツスーツのお姉さんがすきだからかもしれない。余談だが、大人になった藤野キョウの身長は藤野が百六十七センチメートル、京本が百六十六センチメートルらしい。二人とも私より背が高い。
京本の部屋、振り返るシーンで無音になり、振り返った戸の裏には「藤野歩」と書かれた甚平。
回想、京本に無理を言ったのか拝み倒している藤野、京本にチャーハンを差し出す藤野、コタツで並んで寝、ベッドで並んで寝。机に伏す藤野に毛布をかける京本。
『シャークキック』を読む藤野の泣き顔が美しく印象的だったのは、それが"泣き顔"だったからか。京本を失った時は呆然として涙が出なかった。自責の涙を流した時の顔は怒りや後悔だった。
このシーンの構成はエリザベス・キューブラー=ロス『死ぬ瞬間』に書かれた死の受容過程を参考にしているのだろうか。"死にかかっている"当人が自身の死に対して抱く"否認"、"怒り"、"取り引き"、"抑うつ"、"受容"の五つの観念を他者の死に対する観念として捉え直した結果が作中で描かれてきた"呆然"、"自責の涙"、"空想のような四コマのやり取り"、"廊下での三角座り"、"最後の涙"だったのかもしれない。
葬式とは生者のための儀式でもある、と思う。私の祖父が亡くなった時、実感が湧かなかったからなのかもしれないが、棺に横たわる祖父の顔をみてもあまり動揺しなかった。そのまま葬式の日を迎え、実感のないまま葬式が終わるのか、そんなものなのか、と思っていたが、棺を火葬炉に入れる合図のブザーを聴いた瞬間、これが最期なのだ、という思いが急に溢れてきて、涙が落ちた。あの時の涙のおかげで、自分は祖父の死を悲しんだのだと理解し、受け止めることが出来ていると思う。
今、藤野は京本を想って涙を流すことが出来た。
立ち上がり、雪解け水を踏み自分の生活に戻る藤野。
大切なものを突然失った時、人は行きつ戻りつしながら喪失を受容し、前を向いて歩き出す。歩き出していきたい。そんな自戒にも似たメッセージを感じた。藤本タツキの想いを少しは汲むことが出来ただろうか。
机に向かう藤野を背景にエンドロール。四コマの男女は森川智之と坂本真綾だった。
藤野が机を離れ部屋の電気を消したところで閉幕。もう一カット、電気をつけて再び机に向かう藤野が映るかと思った。
上映前に入場特典のネーム版と単行本とを読み比べていた時は目が潤んだが、いざ始まってみると描写を汲み取ることに集中していたこともあってたか涙は出なかった。
シアターを出て、上映中に紙のメモ帳に書き殴った内容を解読し、後藤ひとりのラッピングが施されたテーブルの上で文字起こしする作業に二時間、加筆修正してここまで書くのに三時間くらいかかりました。
ウソ。
六月三十日にみてからウダウダして漸く書き始めたのが七月十四日なので二週間と五時間かかってます。
劇場版『ルックバック』、面白かったです。初見の人も、原作を何度も読み返した人も楽しめる内容になってると思いました。まだみてない人は是非劇場へ足を運んでみてほしいです。
ここまで読んでくれた貴方は、もうみた人か、言われずともみると決めている人かもしれませんが。
鈍いという美徳
鈍い。
蛇口を使っていないのに、洗面台を空けない。
二人半の幅しかない道路で、二列横隊を崩さない。
戸を、洗濯機を、炊飯器を、バスケットボールでも撞くかのように音を立てて閉める。
トイレに入って手を洗わない。舐った指でリモコンに触る。
散らかさないことも、片付けることもしない。
鈍い。無神経。気遣いが足りない。様々に云い表すことが出来るこれらの性質は恐らく、一種の生存戦略なのだ。
鈍いということは変化を受けにくい、剛性が高いということである。部品としての耐久性が望めるということである。
河川の堤防や海岸の消波ブロックは、そこにあるだけで”そこにある”という役割を果たしている。常にそこに立っている人がいるから、動かすことの出来るものが、休ませることの出来るものがある。
社会の歯車とはよく云ったものである。”鈍い”部品を幾つも組み合わせて大きな流れを作り出しているのだ。一つ一つの歯車はただ”鈍い”だけの小さな部品であるからこそ、壊れ難く、組み合わせ易く、そして替えが効く。
歯車は歯車として生まれてくるのだろうか。それとも、生まれた時は粘土だったものが、削られ、焼き固められ、また削られて歯車の形を成すのだろうか。
歯車として生まれた憶えはない。火や鑿鎚からも逃れて生きてきた。自分には”形”というものがあるのだろうか。自分の形を知り、はめ込む隙間を探すということが出来るのだろうか。「上善如水」という言葉がある。上質な善というものは争わず逆らわず、水のようにただ流れていくものなのだ。そんなふうな意味だったと記憶している。己は水として生まれ、水として生きるのだろうか。金と煙を嫌い、草木の根の下を這う生き方をしていたとしても、自分は水であると云えるのだろうか。
「(40+60)÷2」派の頭の中
ネットでみつけた問題
「少女は、車を運転して家から隣町までの距離を往復した。
行きは時速40km。
帰りは時速60km。
では、少女の平均時速は?」
というもの。
(40+60)÷2で時速50kmが答えだと思ったのだが、これは不正解である、と。
速さとは距離を時間で割って求めるものである。
計算しやすくするため、仮に片道の距離を40と60の最小公倍数である120と置き、往路と復路のそれぞれにかかった時間を求めると、
(往路にかかった時間)=120÷40=3時間
(復路にかかった時間)=120÷60=2時間
120kmの道のりを行きは3時間、帰りは2時間かけて走ったので、合計240kmの道のりを5時間かけて走ったことになる。よって、
(120+120)÷(3+2)=48
となり、平均時速は48kmが正解である……と。
納得いかね~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!
この問題、中学校入試なんかでよく出題されるものらしい。つまり小学校までに習う知識で解くことが出来るとされているのだ。
そんな問題を今さらネットでみつけてヤイヤイ言っている時点で、お前は初等教育をちゃんと修了したんか、という疑問が発生するが、それは一旦置いておく。
説明を聞いても納得できなかった。なんで(40+60)÷2じゃダメなん??というのが正直な感想だった。
数学の先生が「ネ簡単でしょ、わかったでしょ」と言っているのにこっちの頭が「???」な時、計算の前提となる単語や問題文の捉え方に齟齬が生じていることがある。今回もそれなのかと思って、今一度問題文を嚙み砕いて考え直してみた。
①「少女は、車を運転して家から隣町までの距離を往復した。」
この"少女"というのが運転免許を取得することの出来る18歳以上の女性に対して適用される言葉であるかどうかの議論は、恐らく今回の計算には関わらないだろうから省くとする。
"家から隣町までの距離を往復"とあるのは多分、「二地点間の距離は不明(或いは任意)とするが、行き来する道のり(距離)は同じであるとする」「往復で長さの異なる道を使った可能性は考えないものとする」ということが言いたいのだろう。
②「行きは時速40km。帰りは時速60km。」
信号待ちなんかも含めた平均時速が、行きは40kmで帰りは60kmだったということだ。
③「では、少女の平均時速は?」
あれ、"平均時速"ってなんだ?自分も一個前の項に使っている言葉だが、そもそも時速(速さ)とは距離を時間で割った平均の値であるはずだ。
ここで云う"平均"というのは「赤赤」とか「瑞々しい」のような強調の意味合いを持たせた畳語表現なのだろうか。それとも、平均した値をさらに平均した値(?)という意味なのだろうか。
未整理な部分こそあるが、一先ず書き出してみた①、②、③の条件から「240÷5」という式に繋げる方法を考えてみて、そして気が付いた。
作問者は「"往路"と"復路"という二つの道のり」ではなく、「"往復路"という一つの道のり」であると捉えているのではないか、と。
この問題を考えている時、自分の頭の中には
(往路・発)家------------隣町(往路・着) →120kmを時速40kmで走った
(復路・発)隣町------------家(復路・着) →120kmを時速60kmで走った
という図式があったが、作問者のイメージした図式は
(往復路・発)家------------隣町------------家(往復路・着)
↳240kmを時速48kmで走った
と、こういうものだったのではないだろうか。
「問題文中の登場人物が"少女"一人だけなのだから、行きも帰りも運転したのは少女である」という部分までは恐らく共通の認識なのだろう。
だがそこから先が決定的に違っていて、作問者は「運転手が同一の人物である」ということを「時間的連続性がある」と解釈しているのではないだろうか。
「(40+60)÷2」派の自分は"往復"という言葉を聞いて買い物や里帰りをイメージし、数分か数時間か、或いは一日二日くらいの時間的隔絶があるのだろうと、即ち"時間的に別人"であるのだろうと考えていたが、「240÷5」派筆頭たる作問者のイメージする"往復"というのはどうやら、水泳やマラソンの折り返しのような、時間的に連続したものであり、往路の少女も復路の少女も"時間的に同一人物"であるようだ。
仮に、登場人物が少女Aと少女Bの二人だったとする。Aが往路を時速40kmで、Bが復路を時速60kmでそれぞれ運転した時の平均速度を求めよ、という問題があったとして、人格によって区別することの出来る二つの道のりを、"往復"と一纏めにしてしまうことには違和感がないだろうか。人格的にしろ、時間的にしろ、別の人物によって走破されたと考えることが出来るのならば、それぞれの道のりもまた、別個のものであると考える余地があって然るべきである。
つまり「(40+60)÷2」派の頭の中には、時間的に別人である"少女(往)"と"少女(復)"が存在し、同じだけの距離をそれぞれの少女が走った、という物語が浮かんでいるのだ。たぶん。
以上のことを踏まえると、やはり「(40+60)÷2」が不正解であるとは言い切れないのではないか、と思えてくる。少なくとも上述の問題文には時間的連続性に関する記述が無いため「"往路"と"復路"という二つの道のり」なのか、「"往復路"という一つの道のり」なのかという判断が出来ず、「(40+60)÷2」と「240÷5」の二つの可能性が発生してしまう……と云うことが出来ないだろうか。
速度を10の倍数にするため車というテーマを使っておきながら、引っかけてやろうというスケベ心なのか、態々"往復"なんて書き方をした結果、解釈違いの余地を与えてしまっている。問題文としての正確性、公平性を重視するならば、先に挙げたような水泳やマラソンをテーマに作問し、時間的連続性を明らかにすべきであった、と結論付け、本稿の締めくくりとする。
「別に違和感とかねーよ、屁理屈言うな」と言われてしまえば返す言葉はないし、「これはこう解くんだよ覚えてネ」というのが受験数学の定石なのかもしれないが、それでもやっぱり頭ごなしに不正解扱いされるのは納得いかね~!ということが言いたかった。
数学で点数がとれなくて私立文系の受験を決めた生徒が、授業中寝てたクセにテスト返しの段になって作問に不服を言っているようなものなので、アドバイスや誤解の指摘等あれば遠慮なく、出来るだけわかりやすく、伝えてやっていただけるとありがたいです。
パート把握用メモ ◆学校であった怖い話 実況プレイ◆ 稲葉百万鉄
【part1】あんたのほうが輝いてるぜ!
●0:00 オープニング
0:03 バンプレストかぁ……
0:09 テイク2お願いします
1:52 逆から読んでも新聞部
2:06 十二個の目
3:44 なんて陰気そうな人だろう>>荒井昭二
6:24 「学校であった怖い話S」も購入済み
7:07 新聞部一年生、稲葉百万鉄
9:47 この人の話は怖そうだ>>荒井昭二
9:58 眼光が鋭いですね。ただならぬものを感じます>>風間望、細田友晴、岩下明美
10:28 みなさんを待ってるのは、この人たちですよ
●11:50 新堂一話「霊界へ続く旧校舎の鏡」
11:54 曲かっこいいね
12:33 昼間から旧校舎に入り浸る男
15:18 吉岡登場
19:46 今日はすごく霊気が強い日だね
20:46 最初で最後の、あいつの笑顔さ
21:40 イナババタイムズ作んないといけないからさ
23:13 サッキュバスかい?
25:21 ファイティング吉岡
26:19 ちょっとエッチな感じだとありがたいんですけど
29:49 死んでいたんだよ
31:43 楽になりたい
32:12 新聞に載せられない
【part2】あんたのほうがいいぜ!
引き出しと布団
「就職して最初に思ったのが、『俺が一番下じゃん』だった」
「というと」
「高校、大学とバイトも部活もやってなかったから、人間関係における上下の感覚が薄れていたんだな」
「一年生、二年生……じゃなく"大学生"を五年続けた気分だった」
「一回留年したんですね」
「家族や親戚としか関わらなかったから、俺は俺でしかなかった」
「誰の上にも下にもいなかったんだ」
「それが会社に入ったら一番下っ端の最年少だ」
「ストレートの同期は一個下じゃないですか?」
「二十年も生きた体が、脳が、組織に属するだけで末端として扱われるということに強烈な違和感を覚えたんだ」
「成人して、自由な時間が出来て、ようやっと"人"になれたと思ったら、また引き出しの中へ入れられてしまった」
「それが嫌で、俺は布団の上へ転がり落ちたんだよ」
「デスクの引き出しの中からね」
「おかげで今日も、俺は俺でいることが出来ている」
「つまるところ貴方は……」
「ニートさ、大卒のね」
名前はタンス
名前はタンス、意味が入った黄色いタンス
グリーンのセーター、母さんの手袋、ストライプのネクタイ、へそくりの封筒、そんな意味たちが入ってる
机の横の、黄色いタンス
タンスに入れて、探しやすい
お絵かき考察
自分の絵柄というものを持っている人が羨ましく思える時がある。キャラクターへの想いや妄想を素早く、わかりやすく形にすることが出来る。迷いが少ないというのは一つの能力である。
自分の絵柄、ほしいな。今あるだろうか。お絵かきは模写ばかりで、オリジナルといえば小学生の頃自由帳に描いた、下半身を露出した劇画調のドラえもんとか、そんなのが思い浮かぶ。あれらに自分の絵柄があったのだろうか。
模写したものの中から気に入った筆のおき方や表情を取り入れて自分の絵というものが出来上がっていくのかもしれない。よく模写した対象。一番はポケモンだろうか。下敷きに並ぶホウエン地方のポケモンを片端から自由帳に並べていた。ドラクエ。ⅸの図鑑をみながら描いた魔王たち。年が上がってくると、BLEACHや鋼の錬金術師。虚化した一護やキングブラッドレイ。線の少ないカートゥーン調、彫りの深い劇画調。写すだけだからその時描きたいものをジャンルに拘らず描いていた。あとは何だろう。最近だとラブライブとか。顔の輪郭や目の描き方はラブライブのものがイメージしやすいかもしれない。
ここで一度頭の中から脱出を図り、自分の好みを収集、整理してみようと思う。そのためのツールとして、pixivを選択した。フォローしているユーザーの、一体どこに惹かれたのかを考え、書き出していけば、絵柄のパラメータのようなものが浮かび上がってくるのではないか。恣意的な能力向上を図れるのではないか。本稿で行うのはそんな試みである。
【中音ナタ】
女児。『1日1本ラブライブ4コマ』と題してTwitterに毎日ラブライブの4コマを投稿していた。一枚絵よりも四コマ漫画を多く投稿している印象がある。淡い色遣い、少ない線で頭身は小さめ。筆ペンのような先細りの線。ギャグ、ダジャレ、ネットミームを多用。目を大きく口を小さく描くためか、キャラクターにあどけなさを感じる。よく描くのは女児、女子高生。にじさんじの男性ライバーも中性的な印象がある。
【あs】
汁。薄い色遣い、少ない線。タッチをあまり変えず、衣服の描きこみや陰影のつけ方でコミカルとシリアスを描き分けている。漫画多め。細い線とグラデーションをかけた淡い色遣い。白無地の背景が多い。肌も白味が強いが、背景を黒くする、輪郭の色線を使う、服や髪で肌の輪郭を覆うなどしているためか、みえづらいという印象は受けない。
【しぴー】
ロリ。線の太さ、並み。肌や衣服よりも頭部、目や髪に光と影の描きこみが多い。衣服も細かく描きこまれているが、対象の色よりも、そこに映る光や影の色が多い場所に目が行くのだろうか。5~6頭身。イラスト多め。
【フウザサ】
白黒。線画とトーンでモノクロ漫画を描いている。カラーありきのイラストというよりは白黒で一度完成している作品に、改めて色をのせている感があり、イラストというよりも漫画という印象が強い。骨格や目立つ部位を描きこむが、筋肉や皺の描写は少ないため、写実よりは漫画に寄るか。
曖昧模糊としていた場所に少しずつ手がかりがみえてきたような。
・作品の工程における塗りの割合によって線画の描きこみ、即ちキートーンの量を変える。
・顔のパーツの配置や頭身はみための年齢や性差につながり、骨格や筋肉の描きこみは写実寄りか漫画寄りかという印象差を生む。
文字に起こすとすればこんなところだろうか。疲れたのでここまで。